幾度と焼失して復活してきた吉原は、ソープランドと共に生きる街

広大な土地に広がる日本最大のソープランド街“吉原”

吉原と言えば、ソープランド街として日本で最も知られた風俗街です。吉原というのは通称で、地名としては存在しません。地理的には、台東区千束4丁目、および3丁目の一部にあたり、面積は、東京ドーム2個分に相当する広大な土地に広がっています。最寄駅は、三ノ輪駅か南千住駅、あるいは浅草駅、鶯谷駅となりますが、吉原までは、徒歩で15分以上かかるので、客の多くは、駅からソープ店が手配する送迎車やタクシーで移動します。

吉原は、遊郭から赤線地帯、そしてトルコ街、ソープ街へ

多くの風俗街でそうであるように、吉原もまた、かつての遊郭から戦後にかけて開発され、今日の風俗街を形成しています。

吉原には、かつて江戸幕府によって公認された遊郭がありました。当時は、現在の日本橋人形町あたりでしたが、大名たちの屋敷が吉原に隣接するようになると、幕府から移転を命じられました。1657年(明暦3年)に移転した吉原は、“周辺の火事・祭への対応を免除”されていたことから、延宝4年から慶応2年の191年の間に22回もの火事が起きています。その多くが全焼するほどの大火でしたが、そのたびに吉原遊郭は、復興してきました。

しかし、明治時代に入ると、吉原遊郭は、縮小を余儀なくされました。それは、政界、財界の社交の場が、東京の中心に近い芸者街に移っていったからです。しかし、1872年(明治5年)、芸娼妓解放令が出されれても、吉原では、江戸時代同様の人身売買が行われていました。

その後、第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)、公娼制度が廃止され、吉原は赤線となりました。1958年(昭和35年)の売春防止法の施行により赤線が廃止されると、それまでの店は、連れ込み旅館やソープランドの前身“トルコ風呂”へと転業していきました。

このトルコ風呂が全盛を迎えると、“吉原=トルコ風呂”というイメージが定着していきました。その名称を巡っては、トルコ人留学生、ヌスレット・サンジャクリが抗議し、後に政治家となった小池百合子の協力により、ソープランドに名称変更されました。

バブル期になると、吉原では、10万円以上の高級ソープランド店が多数誕生し、最盛期のソープランド店の数は、250店舗もあったそうです。しかし、バブル崩壊後、高級店が中級店に鞍替え、または閉店するなど、日本を代表する風俗街“吉原”であっても大きな影響を受けました。さらに平成不況下でソープ店の数は減り続け、今では140店舗ほどになっています。

ソープ嬢のための婦人科病院。情報喫茶は、18禁の風俗有料案内所

そんな吉原を歩くと、婦人科の看板をよく目にします。ソープランド街ということで、そこで働くソープ嬢たちは、性病のリスクがとびきり高いためでしょう。

また、“情報喫茶”と呼ばれる喫茶店も目に留まります。これは、かつて江戸時代の吉原遊郭の“手引茶屋”の仕組みをまねたもので、位の高い遊女を呼び出すための仲介所のようなものです。もっとも現在の手引茶屋は、高級ソープ嬢だけでなく、中級、大衆など、お客のリクエストに合わせてソープ嬢たちの写真と店を紹介し、案内した店から仲介手数料を受け取るという商売をしています。いわゆる風俗無料案内所のようですが、喫茶店なのでドリンク代がかかります。なお、店内は、アダルトな情報を扱いますので、18歳未満お断りです。無料案内所は、日本各地の風俗街にありますが、こうした情報喫茶は、ここ吉原だけのようです。